なぜ、今頃になって言い始めたのだろうか。日本の竹島を取り戻そうという力が働いてから、慰安婦の補償が済んでいないという話になったような気がするが、、、
そもそも、中国(清)に占領されていたのを日本が併合して、結果日本が敗戦したので、今の韓国がある。あのまま清に占領されていたら、今頃は中国の一部の少数民族となっていたのではないだろうか。
他界した私の父から昔聞いた話だが、父は上海から西方に進軍したらしい、その部隊には慰安婦なんてものはいなかったそうだ。食料などは現地調達、そっちの方も現地調達だったらしい。この現地調達は現在の感覚とは違う。調達係は幹部から軍票(軍事用現地調達するための手形のようなもの)を受取り、現地の民家や農家を訪れ、ほぼ強制的に軍票と食料その他を交換していたらしい。ほぼ強制的というのは、特攻銃を持った軍人が農家に押し入り、食料を見つけたらそれを運び出して、隠れている主人などに承諾を得ずに無理矢理軍票を置いていくというものだったらしい。農家にとっては戦争中の相手国の軍隊なのだから反抗すれば殺される可能性は高いので、隠れるしかない。軍隊側としては、正当な支払いを行うという約束をしたんだという証拠に軍票を置いていくという、戦争中だからしかたないのだろうが、そんな状態だったらしい。
父によれば、軍票で買春もありだったそうで、これを現地調達していたという話だった。合意の上かどうかは知らないが、兵隊は中国語を話せないので、彼女が承諾したと誰かに言われれば、それなら自分もという話になってしまう。
それなりの町に着くと幹部相手の売春婦が部隊に派遣されていたようだという話をしていた。そして、終戦間近になって、軍票も底をつき、幹部のサインした紙を軍票代わりに使っていたそうである。戦後、父の部隊の幹部は日本が敗戦したという中国軍のアナウンスを信じないで9月末頃まで現地で戦っていたそうだ。
実際は戦っていたのではなくて、廻りを中国軍に囲まれて動けなくなっていたそうである。もちろん現地調達には出て行けない。戦おうにも銃の射程圏外を囲まれていて、中国軍はその中には入ってこなかったそうで、こちらから弾を撃ってもとどかないので、無駄に弾を使いたくないので、撃ち合いはしない。こちらが出て行くのは撃たれるのが怖いので、結局にらみ合いを続けるということだったらしい。食料が無くなった時点で隊長が自害して、部隊は降伏したらしい。全員殺害されると覚悟を決めていたら、数日間休み無く歩かされて港のある町に着き、船に乗せられ、日本に帰ってきたそうである。なにをしに行ったのかよくわからない話ではあるが、、、
私の経験ではないので、全て本当かどうかは判らないが、自慢気に話をしていたところをみると、たぶん嘘ではなさそうだ。脚色が若干あったかもしれないが、話を面白くするほどの脚色ができるような父ではなかったので。もう30年以上前に聞いた話。
ところで、日本の軍票は敗戦した後、サンフランシスコ条約で請求権が破棄されたため、紙切れとなったらしい。
んー、国と国が殺し合いを認めている時代だから、仕方ないのかなぁ。
負けた国が悪く言われるのはある程度は仕方ないです。歴史は勝った側を有利に描くのは当然です。日本の戦国時代や江戸時代初期、明治時代初期も同じだ。勝てば官軍、負ければ賊軍だ。戦争するなら負けちゃダメってこと。戦争しないでやっていければそれが一番だってことですね。
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