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2012年4月3日火曜日

運命か

運命というものがあるか無いかということであり、運命は決まったことをするかしないかということではない。運命とは決まったことを指すのである。例えば、このブログを書いているのは返事として偶然書いているのではなく必然的に書いている(既に過去において決まっていた)ということが運命なのである。

運命を変えるという話があるようだが、運命があるという前提でそれを変えることができるという考え方のようだが、少しおかしい。運命があるのなら、それを変えること自体も運命の一部であり、変更後も既に運命に含まれていたということになる。つまり運命は変更できないことになる。

運命があると考えるか無いと考えるかは個人の信教の自由になるのだが、

こんなものがあると人生はつまらないものになる。運命そのものが最初からなくて、常に一挙手一投足が自分の未来を変えていくものだと考えた方が前向きに生きていけるのだ。運命という言葉は人生の言い訳にすぎない。老いていく者の使う言葉であり、若い者は運命があるなどと信じ込んでも面白くもなんともない。

人間は時間を超越できないため、非常に苦しいことや、自分の努力ではどうしようも無いことがおきると運命だと言い訳してあきらめる理由づけ。つまり、自分や他人を擁護するために生まれた言葉にすぎない。それを逆手にとって運命が決まっているのだからという脅しに使われるようになっただけだ。

そうだ、運命があると仮定しようか。運命があるのだからダラダラ生きていても楽できるかもしれないならそれの方が良いと思うのであれば、ダラダラ生きていればよい。そして、年を取ってから、これが自分の運命だと言い訳すればいいだけだ。

SFを現実に重ねてはいけない。SFは科学的な面と宗教的な面と経済的な面と情緒的な面など、人を楽しませて、不安がらせて、怖がらせて、うれしがらせるということで書いてある。だからF(フィクション)なので、現実ではない。SFのように、現実を楽しく過ごせる術を今から学んでいくのが大人になる課程だ。

人生、嫌な作業をどうすれば楽しく過ごせるかを学ぶことも大切。別のことを考えるなんてことはこの場合はダメ。別のことを考えているとケガをするかもしれない。ある程度は集中しなければならないが、やりたくない。さて、こんな場合、どうする?

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