Powered By Blogger

2016年7月24日日曜日

南堂久史氏の 量子論 猫の生死はコインの裏表?

私の勘違いなのだろうけど、

猫は生きた状態で箱に入れられ、装置が動けば死ぬ。1時間後に箱を開ける時、猫は死んだ状態か生きている状態かという。

回転するコインの裏表が猫の生死と同じという比喩があるが、どう考えても、回転するコインには回転している状態と回転していない状態があり、回転しているいないに関わらず、表と裏が存在する。

猫は生きているか死んでいるか、箱に入っているか蓋をあけているか。

少し似ているような気がするが、猫は最初生きている。蓋を閉めた時点で、生きたり死んだりを繰り返しているわけではない。蓋を開けた時点で状態が決まり、生きているか死んでいるかであるということだと理解している。

回転するコインを回転させたのは誰なのか。これが蓋を閉じるという行為(計測者の行為)と同じなのか。蓋をあけるというのが回転を止めるということなのか。

どう考えても回転していることが蓋を閉じている状態であるとは考えられない。猫は最初は生きていたのでコインの表を生、裏を死としよう。

猫を箱にいれて、1時間後に蓋を開けた時、生きていたとしよう。同じ猫をもう一度箱に入れて1時間後に蓋を開けた時死んでいたとしよう。死んだ猫を箱に入れて1時間後に蓋を開けた時、猫は必ず死んでいるだろう。

さてコインはどうだろうか。表を正面にして回転させて、数秒後に停止して表がでたとしよう。もう一度回転させて、数秒後に停止して裏がでたとしよう。また回転させて表が出たとしよう。猫と同じなら生き返っていないか?

もちろん、猫の話の本質とはかけ離れているのだが、コインの裏表が猫の生死と同じだという比喩が理解できない。

猫の話はミクロの話を現実の話まで広げてみたらこんなもんじゃないのという事で、コインとは本質的に異なると思う。もちろん、コインを比喩として出しているのであろうが、猫よりわかりにくくなっているのではないだろうか。


この人の解説は、単に現状の理論の説明の都合のいいところだけを寄せ集めただけで、解明されていない事がどれだけあるのかという事を全く考えていないような感がある。

量子論が最終物理理論となるとは限らないはずだし、この人がいうようなことをアインシュタインが見抜けないとは思えないし。

ニュートン、アインシュタイン、量子論と、、、それぞれでは解き明かすことができないものを補足していっているだけで、解明を止めているとか諦めているとは思えないですよね、私には。

この人の記述を読んで感じたこと。命題が『らしい』ということは命題ではないと思う。それでも良いというのなら、猫が死んでいてかつ生きているというのも有りじゃないのかな。命題側に重ねあわせを記述するか、命題2つを重ねあわせるかの違いだと思うけど。

明日の雨の確率は50%です、というのと、明日は雨が降るかどうか分かりませんというのは同じことだと思う。1つの事象がおきるかおきないかが50%の確率というのは不明というのと同じだ。50%ではどっちが起きてもおかしくない。ということは、あるないでいうなら、どっちでもあるということと等価ではないだろうか。50%は予測不能ということだ。

確率は次の1回の事象の結果を当てるのではなく、数多く行った結果がその割合に近づくということ。つまり、明日の降水確率50%というのは次の1回の事を言っているので、降るか降らないかは不明だということでしょ。

まあ、私の頭ではこの程度だな。

0 件のコメント:

コメントを投稿