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2013年1月29日火曜日

ネットの悪口もいじめに いじめ対策法案まとまる(01/29 16:49)

http://www.tv-asahi.co.jp/ann/news/web/html/230129040.html

『いじめ』をする心理とエスカレートしていく心理、子供のストレス、異型の排除心理における『いじめ』。

誰もが聖人君子になれという法律を作るのは簡単だが、実行できるのか。先生が維持できるのか。社会が維持できるのか。『いじめ』が違法ということになれば資本主義が違法になるんじゃないのか。この議員さんたちは何を考えているんだろう。『いじめ』にはある程度の『自衛』も必要で、逃げることができること、休むことができることが必要だ。『いじめ』られないように指導されると、落ちこぼれを作らないために指導するのと同じ結果を招かないか。その後は『ゆとり』なのか。『ゆとり』をやめて競争原理を適用したスポーツ部は先生の『体罰』で『自殺』騒ぎになる。妙な手を使いすぎたのだろう。人は何故その行為を行うのかという研究が足りない。全ての人を同じレベルでしか見ない。個性を考慮しないという、官僚のいうところの『平等』を行うから、こうなるんだ。

方向性が間違っている。

『いじめ』が何故起きるのかということを研究すべきだ。『自衛』についても研究する必要がある。ここで、暴力は絶対ダメということになると、『自衛』もできない。残るは『自殺』しかなくなる。『自殺』すれば橋下市長のように、勝手な意志を捏造して、自分の主張を通そうとする輩も出る。子供も教師も手足を縛られた状態で全てを解決することなんて出来るわけがない。しかも『逃げ道』はないので訴えるには『自殺』しかなくなる。この人達のやろうとしているのは『自殺幇助』だ。

問題は根本にある『平等』という差別だ。皆を同じようにしか扱わない『平等』。それぞれ色々な人がいるのが当たり前なのに同じことを求める『平等』。実際は平等ではなく、個に対する集団の差別(いじめ)なのだ。そして、平等だと言って法律を作り、法律に違反するからと言って平等をやめないようにする。それが集団の差別なのだ。いいじゃないか。勉強できなくても。人の勉強の邪魔をすることがいけない事で、勉強ができないことはいけない事ではないのだから。

いじめには受ける側の主観もある。普通はそんなこと気にするなということで済むことでも、本人は『いじめ』と考える子もいれば、逆に『いじめ』ているのに、本人が気づかないという場合もある。冗談もある。TVの影響もある。悪口をネットに書けないということは、ネットで批判できないということか。悪口と批判は何処が違うのか。

このブログも悪口が書いてあるので『いじめ』ていることになるのだろうか。

バカみたいだ。ネットで書けなくなったら、新しい媒体で書くだけだろう。不満はなくならないのだから。それよりも、誰かが言い出して、それに乗っかって(本人はそう思っていないのに)『いじめ』始める。つまり、『付和雷同いじめ』が問題なのだ。付和雷同しないということを教育するべきなのだ。いじめが悪いのではなく、自分の意志でなくいじめにつきあっている事が最も非難すべきことだといおう教育をするべきだろう。

ちょっと宗教がかってきたかも。宗教でないと難しいかもしれないな。思想を教えるのは。

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